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                戦国時代 | 
時を経て、戦国時代。近江国の八幡商人が麻の糸を織らせて蚊帳を作り始めたのが「近江蚊帳」で、この地方は琵琶湖の湿気が蚊帳を織るのに適していたようです。ちなみに「ふとんの西川」の創業者西川仁右衛門は19歳のときに蚊帳・生活用品業をこの地で開業しています。 戦国時代までは蚊帳は上流階級だけの贅沢品だったようで、戦国武将のお姫様の輿入れ道具として扱われるなど、また「米にして2~3石」と高価なものだったようです。  | 
              
この間、蚊帳の素材は麻によるものがほとんどでしたが、昭和35年になってようやく合成繊維での蚊帳が登場することになります。この頃から昭和40年頃まで蚊帳の生産は250万張りを数えるほどのピークをむかえました。しかし、この絶頂期も一瞬で、同じこの頃より急速に下降の一途をたどるのでした。

話を網戸に戻しますと、これに関しては前述の蚊帳ほどの古い文献や記録などのたぐいがほとんどありません。そこで推測を交えることとします。日本の住宅様式の変遷を考えるとある程度の想像ができます。まず奈良平安時代の古い絵巻物などを見るとわかるように建物には縁側を挟んで仕切るものがなにもなく開放的でした。すなわち部屋と部屋の仕切りも帳(とばり)程度のもので網戸が存在するような建物様式ではなかったのです。ですからこの時代から網戸が生まれるまでの間は蚊帳が活躍したのです。
もっともここでの窓は現在の引き違い窓のように可動式といったものでは当然ありません。これも推測になりますが、現在の網戸のようなものが登場する条件としては当然のことながら窓の形態が引き違い式でなければなりません。 では現在の窓のように外気を遮断するような使われ方をしたのはいつ頃かということになります。形態としては戸板式の雨戸が外気と縁側を遮断していたものが引き違いの窓としても使われ出したのが出発点ですが、現在のような使われ方をするには長い年月を必要としました。 結論的には窓硝子が劇的変化をもたらす役割を果たすようになったことです。旭硝子によって国産の硝子が始めて生産されたのは明治42年のことで、大正に入ってからラバース式製法など大量生産が可能になってきてから窓硝子を使った窓は急速に普及していきます。ではこの頃から網戸が出てきたのかというとそうでもありません。まだこの時点では窓のメーカーや網戸のメーカーというものの存在すらありませんでした。この時分、窓を作っていたのは大工さんから分業していった建具屋さんだったのです。おそらく気の利いた建具屋さんは蚊帳の素材や金網を使って窓ガラスの代わりに窓にはめ込む網戸を作っていたと考えられていますが、ごくごく一部のことだったでしょう。あるいは窓の全面を覆い隠すように蚊帳の素材を張っていたようです。網戸に関する情報がないのはこうしたところからきています。このような状態は日本が戦後から立ち直る昭和30年代中頃まで続いたのです。